展示資料目録
【購入】 1件    
1. 中川耕斎粉本類 一括のうち   江戸時代(後期)~大正時代
【寄贈】 5件        
1. ビロード貼交屏風 6曲1隻   近代  
2. 細見新補 近江国大絵図 1幅   安政3年(1856)  
3. 清水節堂関係資料 一括のうち   昭和時代(前期)  
4. 国友一貫斎天体観測関係図面 8枚   江戸時代(後期)   
5. 垣見恒男氏旧蔵資料 6点のうち3点   室町時代~昭和時代   
 
 
   
 虎図  鶉図
   
 鯉図  「呉二喬読兵書図」下絵
中川耕斎粉本類 一括 江戸時代(後期)~明治時代
1.購入 中川耕斎粉本類 一括 江戸時代(後期)~大正時代

 長浜市山階町出身の絵師・中川耕斎(なかがわこうさい・1838−1922)の関連資料。耕斎は、明治から大正にかけて長浜で多くの作品を手掛け小森竹塘(こもりちくとう)、清水節堂(しみずせつどう)、加納凌雲(かのうりょううん)などの近代の長浜を代表する画家を育てた。彦根や京都に出て絵画修業をし、一時は京都を代表する絵師の一派・岸派の岸竹堂にも就いたとも伝わる。明治維新後に帰郷してからは、亡くなるまで地元で絵筆をふる揮い、その作品は現在も市内を中心に伝わっている。また、耕斎は、画業の傍ら、神照村の村長や坂田郡壱番組組合惣代、坂田郡第十三区副区長なども歴任しており、明治から大正期において長浜の政治・文化の発展に貢献した郷土の偉人である。
 多くの作品を残した耕斎だが、修業時代については不明な部分が多く、現存する作品も多くが70代から没する85歳のもので、どのような絵画学習を経て、郷土を代表する絵師となったのかは明らかではない。
 購入した「中川耕斎粉本類」は、耕斎の粉本(絵手本)・画稿類である。耕斎の粉本については、孫・中川寅三の著書『中川耕斎画伯畧傳』(1971年)に「畫粉本目録/大正五年調」と記され、その存在は知られていた。しかし、長年所在不明となっており、近年、耕斎没後100年に向けて当館が行った調査のなかで、奇跡的に発見された。資料群は、粉本目録の内容に一致し、また、新たな資料も含まれている。20代の修業時代のものが中心で、岸派や南蘋派、狩野派の写しがあり、また、「雪堂」など今まで知られてこなかった号が記された作品も散見される。ほとんど情報のなかった耕斎60代以前の活動を知ることができ、大変貴重である。これらの資料群によって、今まで詳細が明らかでなかった耕斎の生涯と画業がより鮮明になることが期待される。
 

 
寄贈 国友一貫斎天体観測関係図 8枚 紙本墨書 江戸時代(後期)

 かつて三重県の個人宅に保管されていた国友一貫斎の天文観測関係図面8枚が寄贈。
 その内訳は、太陽黒点観測図2枚、月面観測図3枚、金星・木星・土星観測図2枚、反射望遠鏡図1枚の計8枚である。重要文化財「国友一貫斎関連資料」に同様のものがあり、本資料はこれらを書き写したものと考えられる。
 8枚のうち、5枚については、画面下に「能當」と一貫斎の号が入った方印が押されており、一貫斎自身によって記されたものと考えられる。これらの図面は、もともと伊勢国津藩(現在の三重県)藤堂家の城代家老・藤堂仁右衛門家に伝来したもので、一貫斎が望遠鏡の売り込みのために、この図面を差し出したと伝えられている。
 一貫斎と津藩の関わりは深く、その関係は「国友一貫斎家関係資料」中で確認することができる。一貫斎の弟・国友源重郎が一貫斎に宛てた書状(無年9月17日付)によると、藤堂家から38両で気砲の注文があったことが知られる。また、加賀藩(現在の石川県)の渡邊喜内(わたなべきない)に宛てた書状(無年3月15日付)によると、文政9年(1826)12月に、国友村を出立し関西を周る旅程の中で、文政10年(1827)の正月は津藩に滞在していたことがわかる。また、一貫斎の娘も津藩の大瀬家に嫁いでいるなど、津藩の状況を知る機会も多くあったと考えられる。
 一貫斎と藤堂家関係者とは、もともと非常に近い関係にあり、反射望遠鏡の売り込みも行われた可能性があるが、実際に望遠鏡の購入が行われたかどうかは不明である。
 そのほか、西洋方役人である佐藤兵衛・打田猪三男・平松半右衛門の連署状(6月10日付)が伝来しており、「国友藤兵衛」へ対し、三人扶持が給せられたことが記されている。これは、時代からして、一貫斎の子・重俶に対するものであり、次代に至るまでも深いつながりを保っていたことが伺える。
 

 
 
 
寄贈 垣見恒男氏旧蔵資料 6点 室町時代~昭和時代

浅井久政書状 垣見助左衛門尉宛 1幅 天文13年(1544)

 垣見家子孫宅に伝来した資料。そのうち本資料は、天文13年(1544)、浅井氏二代目・浅井久政(1525-1573)が家臣の垣見助左衛門に宛てた書状である。下坂又次郎の被官(家臣)を垣見助左衛門に与える旨を述べる。事情は不明ながら、久政は家臣がもつ被官の支配権に介入しており、戦国大名としての浅井氏の権力伸長を示す資料といえる。
 垣見助左衛門は、元亀争乱において小谷落城まで浅井氏に仕えた家臣で、落城直前に浅井長政から与えられた感状が残る。長政の父である久政は、元亀4年(1573)8月29日に小谷城小丸で自刃している。
 坂田郡の土豪であった垣見氏は、家伝によれば神崎郡垣見(現在の東近江市能登川町)の出身であるという。すでに永享7年(1435)の「勧進猿楽奉加帳」(長濱八幡宮文書)に「懸筧殿(かきみどの)」とその名が見え、この時までには坂田郡宮川村(現在の長浜市宮司町)に居住していたと考えられる。文明3年(1471)には比叡山の僧・慶行によって坂田荘の公文職(くもんしき)荘園の文書の取り扱い、年貢の徴収などをつかさどった荘官のこと)に任命されている。
 戦国期、北近江の地が戦国大名浅井氏の治世下に入ると、垣見氏はその家臣となる。元亀4年(1573)、小谷落城の12日前にあたる8月18日には、浅井長政から感状かつ知行宛行状を受けており、最後まで浅井氏に忠誠を誓い長政とともに小谷城に籠城していたことがわかる。
 小谷落城後は帰農したが、江戸時代になっても地主・郷士格の百姓として大きな影響力を持ち、垣見家の屋敷内には、村人が傘をさしたままや、下駄を履いたままでは入ることができなかったとされ、中世以来の家格を保っていた。
 宮司町にある垣見氏の館跡(長浜市指定史跡)は、南北約110メートル、東西約49メートルの敷地内に土塁と堀跡が現存し、主屋、門、蔵などの建造物と庭園がある。

 
 
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